南足柄 クリスチャン 30歳 二児の母 日々のレポート
あらわさない、夫、愛する
あらわさない、夫、愛する

あらわさない、夫、愛する

夫はあまり表わさない。

正確にいうと、”家庭の外で”あまりあらわさない。

いやしかし、家の中でも、わたしがすごい勢いで「どう思う!?」と聞くことがなければ、あまりしゃべらないのかも知れない。きっと、そうだと、思われる。

とにかくそんな男である。

 

しかし彼はあらわさないだけで、聖書を土台としているゆえの考え方、視点、気づき、洞察がかなり沢山ある。

それをわたしは家庭の中で存分に味わわせて頂いている。とても幸せである。

だけれど、もっと、教会の中でもあらわしてほしい。とわたしは思ってきた。

今でもそう思っている。「与えられている最高のものなのに、あらわさないなんて!」と。

それは色々な人にも言われるわけで。

「彼は本当にあらわさないよね」。

それを言われる度にわたしは、「ですよね!(彼に)(あらわすように)言ってやってください!」

そう言ってきた。

だけれど最近、またこのパターンの会話をした時、すごく違和感を覚えた。

と同時に、二つのことを気づかされた。

この夫を、愛する彼を支える、妻という最高の祝福が神から与えられているのに、わたしはそこにちっとも立っておらず、むしろその対極にいることを。

そして、このことで、わたし自身と神との会話がないことを。

神にごめんなさいと心から祈らされた。

忘れていた呼吸(祈り)を自然と思い出させられ、平安と安らぎが心に満ち、このことも既に神のゆるしの中にあることに感謝した。

彼を支えることが、わたしには与えられている。それを喜びと共に大切に受け取った。

御霊に導かれる喜び。

 

彼があらわせない理由はあって、何度もそのことを聞いてきた。

いつも責めるつもりで聞くのだけれど、どうしたってわたしが思う結果にはならない。

なぜなら、そのことの中にはいつも神との会話があって、神と共にあることをわたしは知るからだ。

おそれがあるけれど、たたかいがあるけれど、神と共に日々を(彼の速度で)一歩ずつ進んでいく彼は、とてもかっこいい。

自分で多くを話す自分と、神が示すことを、神に頼りながら一生懸命にあらわす彼との対比に、教えられる。

だってその結果は神の栄光になるから。彼が話す時には神の偉大さをただただ褒めたたえることへ、自然と導かれるから。

 

【ナマケモノ🦥】

ある時から彼に与えられた一つのアイデンティティである。

そんな男を、偉大なその御手の中でいつも導き、励まし、力づけ、用いてくださる主に感謝。

そして、そんな彼の妻という最高の祝福をくださった主にハレルヤ。

 

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