夫はあまり表わさない。
正確にいうと、”家庭の外で”あまりあらわさない。
いやしかし、家の中でも、わたしがすごい勢いで「どう思う!?」と聞くことがなければ、あまりしゃべらないのかも知れない。きっと、そうだと、思われる。
とにかくそんな男である。
しかし彼はあらわさないだけで、聖書を土台としているゆえの考え方、視点、気づき、洞察がかなり沢山ある。
それをわたしは家庭の中で存分に味わわせて頂いている。とても幸せである。
だけれど、もっと、教会の中でもあらわしてほしい。とわたしは思ってきた。
今でもそう思っている。「与えられている最高のものなのに、あらわさないなんて!」と。
それは色々な人にも言われるわけで。
「彼は本当にあらわさないよね」。
それを言われる度にわたしは、「ですよね!(彼に)(あらわすように)言ってやってください!」
そう言ってきた。
だけれど最近、またこのパターンの会話をした時、すごく違和感を覚えた。
と同時に、二つのことを気づかされた。
この夫を、愛する彼を支える、妻という最高の祝福が神から与えられているのに、わたしはそこにちっとも立っておらず、むしろその対極にいることを。
そして、このことで、わたし自身と神との会話がないことを。
神にごめんなさいと心から祈らされた。
忘れていた呼吸(祈り)を自然と思い出させられ、平安と安らぎが心に満ち、このことも既に神のゆるしの中にあることに感謝した。
彼を支えることが、わたしには与えられている。それを喜びと共に大切に受け取った。
御霊に導かれる喜び。
彼があらわせない理由はあって、何度もそのことを聞いてきた。
いつも責めるつもりで聞くのだけれど、どうしたってわたしが思う結果にはならない。
なぜなら、そのことの中にはいつも神との会話があって、神と共にあることをわたしは知るからだ。
おそれがあるけれど、たたかいがあるけれど、神と共に日々を(彼の速度で)一歩ずつ進んでいく彼は、とてもかっこいい。
自分で多くを話す自分と、神が示すことを、神に頼りながら一生懸命にあらわす彼との対比に、教えられる。
だってその結果は神の栄光になるから。彼が話す時には神の偉大さをただただ褒めたたえることへ、自然と導かれるから。
【ナマケモノ🦥】
ある時から彼に与えられた一つのアイデンティティである。
そんな男を、偉大なその御手の中でいつも導き、励まし、力づけ、用いてくださる主に感謝。
そして、そんな彼の妻という最高の祝福をくださった主にハレルヤ。
