「神様だいすき!」
目の前に与えられている沢山の子どもたちが、そうなっていない現実を見せられた。
いつも神の言葉が語られていて、それで子育てをする導きだって常に、常に、与えられている。
そして、子どもたちが救われることを願っている、祈っている、(と言う。)
それなのに、「神様だいすき!」な子は一体どれくらいいるだろうか?と。
その現実を神に激しく見せられた夜、家に帰り、わたしは沢山の涙と共に神との深い交わりに入った。
愛する愛する神様の前に、ごめんなさいをした。
とても苦しかった。
こんなに神様が大好きで、恵まれて、こんなに受けているのに、それを子どもたちに流せていない。いや、流していないのだと。
願っている、祈っている。そして、神の教えによって関わっている。そう思っている。
でもその救いが、彼らと神との出会いが、どこか遠くで、いつか、奇跡的に起こると思っている?……
自分のこれまでのすべてをもって、だいすきな主の前に出た。
神にごめんなさいをしたその瞬間から、自分の【すべて】を変える必要があることを導かれ、その祈りがすぐに始まった。
考え、言葉、関わり、判断、行動。
自分の【すべて】を神の土台に置き、それによって子どもたちと関わりなさい、と。
その使命と責任が与えられていることを受け取った。
そして、神が導き、御霊が助けてくださることの確信と共に、そのスタートをきった。
神様がだいすきな子どもたち。
彼らに与えられたこのアイデンティティは、私自身が神に求め、神に聞くことへと自然に導き、自力で関わることから自然と離れさせる。
この夜、主から教えられたもう一つのことがある。
それは、悔い改めは、主の前で、主との関係の中で起こされるものだということ。
口で言うことでなるものではなく、人のためでもなく、人に認められ、評価されるためのものでもない。
ただただ主とわたしとの関係の中に与えられるもの。
与えられた一つの悔い改めは、主とわたしの関係をさらにぐっと深め、近いものとした。
主に心から感謝した。
一回何かをされただけで、ゆるせない自分のちっぽけさ。
何度も語り、教え、ゆるしの中で悔い改めるチャンスさえも与えてくださる主のあわれみ深さ。
この方にいつも包まれている人生、なんという幸せ。
愛なる神に栄光あれ。
