子どもに仕える機会が与えられている。
彼らが成長するにつれ、関わるときに「知恵が必要だ」と思うことが増えた。
その日も、「あの関わり方はよかったんだろうか。愛がなかったのではないか。もっと豊かに関われたはずではないか」
そんなことがあった。
自分じゃどうにもできない。知恵は神からくると信じている。
だから、「知恵が与えられるように祈ってください」とあらわすと、
「どうして知恵が欲しいのか。愛じゃダメか。」と言われた。
わたしはそれに対し、愛だけだとむずかしいと感じる時がある、そう答えた。
愛よりもう少し具体的な知恵、つまり導き方の模範みたいなものを求めていたことに気づく。
周りの先輩たちを見ていると、知恵があってすごいなぁ、と尊敬をおぼえる。
上手に導いている。
ああいう言葉のやりとりや、判断、説明はわたしにはできない。
でも、そういうのができるようにならなければ。
この子たちの救いのために用いられたい。
だから、成長しないといけない。
知恵が欲しい。知恵があれば、ああいう風にできるんだ。
上手に導けるんだと。
でも、知恵が欲しいと祈り続けた結果、与えらえれたのはこの「愛すること」、ただそれだけだった。
いやむしろ、これこそが最大の知恵なのだと後になって気づく。
すぐに、「愛すること」で、関わることを始めた。
すると一気に楽しさと喜びが増した。
神に愛されているから、その愛のゆえに愛することは、決して難しいことではない。
愛することで考えたら、あの人のように、ああいう関わり方を、ということは、なくなった。
本当になくなった。
わたしに与えられているもので愛するのだから、自由がある。
神によって、御霊によって愛するから、栄光も神にある。
自分を誇る点は何ひとつない。
ものすごく解放された。
それは、奉仕に限らず、2人のむすこに対しても、他の誰に対しても、同じことだった。
何かをする時、これが正しいのかと考えることがある。
何ゆえの正しさを考えているのかも、曖昧なのに。
でも、動機が愛なら、やっぱり自由に動ける。
「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」第一コリント13:13
イエス様の教えのすばらしさ。