必要性で買う、ということを教えられた。
いや、きっとこれはずっと前から、何回も教えられていたはず。
……
「必要性で買う」と言う人を見て、わたしは何て窮屈なのだろうと思ってきた。
いちいち、必要か必要じゃないかを考えて、それから買うなんて、わたしには御免だと。
わたし:「〇〇(夫の名前)!これかわいい!買っていい?」
夫:「ええ、それは必要なの?」
わたし:「いや、これは運命の出会いなんだ。大事なのはときめき。ねぇ、おねがい?」
今こうして文字にしたことで、自分のあまりに幼稚な実態に驚くと同時に呆れた。
でもこれがわたしの買い物の仕方なのである。
「あったらいい!」「かわいい!すてき!」「ほしい!」
本当に、ただの欲であることを、じわじわと知る。
「家計は妻の膨大なおこづかい」。
夫の数ある名言の中の一つである。
……
でも今回教えられたことをはじめてみた。
“必要性で買う”ということ。
すると、色々なことが見えた。
まずは、もうすでにわたしの必要性は、あらゆる面で、神によっていつも満たされていること。
家、車、着るもの、食べるもの、使うもの。支払い。
何一つ困っていることがない。
その事実が当たり前になってしまっていたけれど、それがどれだけの恵みなのか、またその恵みを数えるたびに、自分がどれほど神に愛されているかを深く味わう。
日々の生活の中で、たくさんの感謝がうまれた。
次に、神様のために捧げるものがたくさんあること。
今まではわたしのおこづかいとして使ってきた家計だけれど、必要性で買うという視点に立った時には、欲にまみれた使い方にストップをかけることができた。
そして、神様のため、あるいは自分に与えられている人のために使うことを、あまりに自然に始めた。
捧げるのか、自分のためか。
窮屈に見えた“必要性で買う”ということには、たくさんの自由があることを味わった。
もう一つは、お金はこの世の一時的なものであること。
お金を一枚ずつ数えているその瞬間、「これはただの紙切れなんだ」と虚しさがわたしの心を一気に襲った。
天には持っていけない、この地上のものであり、そんなものに縛られる必要はないんだと。
でも、ただの紙切れに魅力を感じ、そこに陥ってしまうのがわたしの弱さであり、そこから守られることを祈る瞬間にもなった。
……
与えられているお金を、与えてくださっている神によって使うこと。
そこにはたのしみと喜びがあった。
日々、そこら中に誘惑はあって、いそいそとそこへ行ってしまう弱さがある。
でも祈りがあれば、それを避けることができるから、絶えず祈ろう。