ヨシュア記の学びを通して受けとったことを、信じて祈って出かけた。
(ヨシュア2:6−13)
わたしは神によっていきます。
どうか、それを見た人たちが神様を見ることができますように。
そして、神を求める心が起こされますように。
今日、神様は一組の親子を送ってくださった。
信じて祈って出かけたから、神様が送ってくださった存在だとすぐに確信が与えられた。
祈りながら会話をした。祈りながら、神様に判断を求めながら、関わった。
わたしは神によっていきます。
どうか、それを見た人たちが神様を見ることができますように。
そして、神を求める心が起こされますように。
……
何が大変なのか、そのお父さんは話してくれた。
そして、わたしの子育ての話も伝えた。
子育ての話をすることは、わたしの中にいる神様を伝えることだった。
息子と同い年だという娘さんとも関わった。
今までの自分だったら、「うちの子がうちの子、よその子はよその子」みたいな考えと行動があって、関わることはしなかった。
でも、この子も神様が与えてくださった子だから、なにもおそれることなく行動している自分がいた。
そして、気付かされた。
何を話したとしても、どんな行動をするにしても、自分が神様によって生きるなら、それはすべて神を伝えることになるのだと。
……
神様を伝えたいという思いがある。
そして、それを実現するための“思い描く理想の会話”があった。
「福音を伝える」とか、「クリスチャンです」と伝えることとか。
そうした会話ができないと、「ああ今日も伝えられなかった。何気ない会話しかできなかった」と落ち込む。
そんな日々だった。
でも今回学んだ。
自分がすることと、祈ることのバランス。
伝えることの自力から、一つ解放を味わった。
伝えることの喜びと力を受けた。ハレルヤ。