ある決断を聞いた。
それは祈りの中で起こった決断だと聞いた。
それならばその決断は絶対に神の御心だから、必ず実現するように!
わたしはそんな祈りをしてしまった。
でも後になって、これが罪であることを、わたしは神様との交わりの中ではっきりと教えられた。
たとえその決断が「祈りの中で起こった」と聞いても、それでも。
「神の御心だけがなるように」。そうやって神の御手に委ねることが、わたしのするべきことだった。
「それが絶対にそうなるように」という思いは、すべての支配者である偉大な神様の上に立ってしまったということで、わたしはそれに気づいた時、どうしようもなく苦しくなった。
何回も神様にごめんなさいと祈った。
だけれど、何回祈っても足りないような気がして、自分が満足するまで何度も祈った。
それでも満足はなくて、また思い出す度に祈る、その繰り返しだった。
でも今日、みことばを通して、「わたしはもうすでにゆるされている」。
その神様のゆるしの深さを味わい、解放された。
「イエスキリストの十字架によってわたしの罪は完全にゆるされている」。
何度も聞いてきたことだったけれど、その事実がどれほど深い恵みであるかを、神様は今日も教えてくださった。
「あの罪はゆるされているけれど、さすがにこんな罪はむりでしょう、、」なんてことはなく、「10回祈ったからゆるされる」ということでもない。
何回も謝るとか、この罪に対してもっと苦しんだ方が良いとか、そんなことを考えているのはわたしであって、神様のゆるしはもうすでにあった。
時々信仰生活に疲れてしまっていたのは、わたしが自分の方法に留まっていたからだったと知る。
この、“すでにゆるされている”という確信の中で歩めることはなんと幸いだろうか。
神に生かされている人生を心から感謝します。ハレルヤ。