南足柄 クリスチャン 20代 二児の母 日々のレポート
模範
模範

模範

わたしの模範はイエスキリスト。

………

「あの言い方がいやだった」「あの言葉がいやだった」「あの表情がいやだった」

わたしは、人の言い方、言葉、表情、それらに対してほんとうに弱い。

嫌な思いをすると、相手を責めたり、裁いたりしてしまう。「当然あなたがわるいのだ」と。

これはわたしの人生で度々出てくることで、一度クリアしたと思っても、また次がやってくると、そこから抜け出すにはとても時間がかかる。

最近も一つそんなことがあって、祈って、神に委ねていた。「神様、あなたにによってこのことを考えるなら、わたしはどうしたら良いのか教えてください」。

神がどう導いてくださるのか、ドキドキしていた。その過程に痛みや苦しみがあるのがこわかった。

でも、自分から出てくるものの中に、神はいないことを教えられる日々。神にゆだねるしか、神にある歩みはできない。

………

神は、神ご自身の言葉によって、こたえてくださった。

ルカ22:24−27
“また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。
すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。
食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。”

イエス様が十字架の上で死なれ、葬られ、三日目によみがえられた。神なのに人となってくださった。この方がわたしに仕えてくださった。

だからわたしも人に仕える。

それを教えられた。これが祈りのこたえであることを、あまりにもはっきりと見せられ、感動をおぼえた。

神は必ず祈りにこたえてださる方。

でも、このことを受け取った時、「よし!仕えるぞ!」。一瞬で自力が働いていた。

「この人に仕える心を与えてください」その祈りを導かれ、いまわたしはその祈りの中にいる。

………

「愛せない」「ゆるしたくない」そうした感情が、イエスキリストによって救われたのに出てきてしまうことがある。

でもその度に、わたしは何によって救われたのか、何から救われたのか。だれによってゆるされ、愛され、生かされているのか。そこに戻らされる。

心を癒すのも、前に進む力をくださるのも、この方。

イエス様がしてくださったように、わたしもする。模範はイエス様。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)