「今日も妻がここに置かれていることを感謝します」
夫はよくそう祈ってくれる。
その意味を、特にこの数日教えられている。
この病院のために、心から祈ることがはじまったのである。
淡々としているようでも、実際話してみると、人々が様々なことで苦しんでいることを知る。
「疲れている人に主の癒しがあるように。悲しんでいる人に主の慰めがあるように」
「飢え乾いている人にイエスキリストの救いが届くように」
「それらのため、わたしをどうか用いてください」
これまでの生活は、ほぼクリスチャンに囲まれていた。
救われていない人が多くいることを、実際よくわかっていなかったかもしれない。
でもいま、救われていない人がこんなにも多くいることを見せられる環境にいる。
その人たちのため、祈る責任がわたしに与えられている。
クリスチャンが周りにいないことは、こんなにも心細いのかと思う一方で、こうして世に送り出されていることに、感謝をおぼえる。
多くのクリスチャンは、こうして1人で世に出て行ってるんだな。どれだけ祈りが必要だろう。
「置かれている」というめぐみには大きな責任が伴う。
それを果たすことのできる信仰が与えられているから、今日も祈る。