わたしは小さな頃から教会へ行っていた。
だから、聖書の神という存在はいつも近くにあって、なんの違和感や疑問もなく、祈りや礼拝も「ふつう」に行っていた。
でもそれは、助けて欲しい時だったり、都合の良い聖書の言葉だけを選んで使ったり。
信仰でやっていた、というより、「私の人生がまずあって、その助けとして神がいる」いう考えによる自己中心的な人生だった。
今思えばそれは偶像礼拝となんら変わりのない生活である。
でも、ある時真理がはっきりと語られた。
「罪は、神に背いて生きることだ」「その歩みの先は滅びだ」。
第一に神がこの天と地をつくられた。わたしもこの方によってつくられた。そして、この方の偉大さの中で生かされている。
そもそも、人はみな生まれた時から罪の中に歩んでいることを知った。
愕然としたその時を、今でもよくおぼえている。
神は私の助けとして補助的にいる存在でも、都合の良い時だけ頼るものでもなかった。
罪からの唯一の救いの方法は、神が与えた救いを受け取ること。
「イエスキリストがわたしの罪のために十字架の上で死なれ、葬られ、よみがえられた」この福音の三要素を信じることだった。
「信じるなら、滅びの道から、神と永遠に生きる永遠のいのちの道にうつされる」と。
わたしは自分が罪をおかしていることを告白した。そして、この福音を心から信じ、神と共に歩む決断をした。
これがわたしに起こった救いである。
罪の結果のゆえに、苦しむことは毎日ある。
救われても、罪の性質はあるから、それが顔を出す度にたたかう。
でも、わたしはこの絶対的な救いを受けた。
もうこの罪に縛られる必要はない。
苦しみも、弱さも、この救いを与えてくださった神によってゆるされ、いやされ、新たにされ、日々神に近づいていく。
神に希望があり、神に喜びがある。
聖書は、世は罪の結果のゆえに滅びていくと教えている。
病気、争い、多様化、世は混沌としていく一方だ。
救いは唯一イエスキリストによってある。
自分の罪を告白し、この救いを受け取るなら、その人は救われ、永遠のいのちを受ける。
これが神の与えた人類の救いの方法だ。
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自分が救われた時のことを思い起こしたとき、数年前の祖母が亡くなった時を思い出した。
救われていなかったため、彼女は滅びた。
目の前で祖母の肉体が一瞬のうちに焼かれ、骨になって出て来たのをみて、あまりのあっけない最後に愕然とした。この肉体の虚しさともろさを知った。救われていない魂はこの瞬間終わるんだ。
永遠の滅びか永遠の命か。そのあまりに対照的すぎる二つの道をはっきりと見せられた。
でも、救われた魂はこれからもまだ、ずっと、永遠のいのちによって、天での神との生活が始まる。
祖母の命は終わり、彼女は永遠の苦しみに入った。
人の「魂」が救われる必要があることを、深く、深く、神によって見せられる体験だった。
1人でも多くの魂が、救われますように。
今一度、それを心から、心から願い、この救いの証を神の御手にゆだねます。