息子がいる新しい生活に、ようやく慣れてきた。
「なんだか落ち着いてしまったな」という感じ。落ち着いてない時は、落ち着いてほしいと言うのに、落ち着いたら落ち着いたで、不満を抱く自分のわがままさ。神の日々の忍耐を感謝せずにはいられなかった。そして、夫の「あなたからわがままをとったら、一体何が残るのか」という、受容なのか、諦めなのかわからないこの一言を思い出す。
しばらくそんな風にあれこれ思ったり、今後の生活について考えたり、(時々)祈ったりしていた。
そして、自分の弱さを知ることとなった。
それは、【人の言葉に人生のものさしを置いている】ということ。
「この人がこう言ってくれたから、あの言動は正しかったんだ」
「あの人がこう言っているから、こうした方が良いんだ」
そんなことが多くなりすぎている自分に気付かされた。
“神は人を通しても働かれる神”。その恵みを日々味わっていたものの、受け取り方がだいぶずれた方へ行っていた。
そんなことを夫に話している中で、自分に足りないのは、神の言葉を聞くことなのだと、よくわかった。
夫はいつも聖書に答えを探す。何か相談すると、聖書がどう教えているかで考え、答えてくれる。その豊かさに、いつも尊敬と感動をおぼえる一方、私にはそれが難しいだろうと思っていたし、それにチャレンジしようという気もなかった。
でも、御霊の働きによって、“これが今の自分に最も必要である”ということ、そして、“今の私には聖書が読める恵みが与えられている”、という二つの確信があり、デボーションに加えて、創世記から読み始めることにした。
第六日目を読み終え、さっそく恵まれている。