南足柄 クリスチャン 20代 二児の母 日々のレポート
動機
動機

動機

「どうしてあんなことを言ってしまったのだろう」と落ち込んだ夜があった。

私は、頭で考えていることと口から発する言葉が異なることがよくある。
理由は色々ある。相手によく思われたいという動機からであったり、ただ単に緊張していてうっかり、ということも多い。今回はそのどちらもだったから最悪である。

帰り道、落ち込んでいると夫に「どういう動機でそれを言ったの?」と聞かれた。そこで初めて、自分が相手に何を伝えたかったのかをよく考えた。

「うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの証言をすれば逃げおおせることはない。」箴言19:5
「うそをつく証人は罰を免れることはない。欺きの発言をする者は滅びる。」箴言19:9

次の朝、この箇所をデボーションで読んだ。
これは裁判に関しての話だが、今の私たちにも適応できる。
神様は私の行為のすべてをご存知であり、その動機までも見ておられるということ。神を恐れるならば、自分の口に見張りを立て、言葉を大切にする必要がある。

それから、自分が何のためにそれを言うのか、言葉を発する前によく考えるようになった。すると、普段自分の言おうとしていることが、いかに神の御心とずれているのかが分かるようになった。そして、言葉を大切にするようになった。

ある日、職場のスタッフに気になっていることを伝えたいと思った。しかし、今すぐに伝えると、どう考えても相手を責める動機からだったので、祈って、また祈って、祈って、何とか静まった。まず、相手が大切なスタッフであることを思い出した。そして、伝える必要があることかをもう一度確認し、言葉を選びながら伝えた。すると、予定していた言葉とは違った、「本当に私の口からでているのか?」と疑ってしまう愛のある非常に良い伝え方ができた。そして、大抵私の言葉を面倒臭そうに聞いているそのスタッフが、大切に聞いてくれ、悩んでいることを色々と相談してくれた。とても感動的な瞬間だった。

この数日の間で、聖書を読むこと、そしてそれを実践することは、絶対に自力ではできないと体験的に知った。聖霊が働いてくださることにより、自分でも驚く体験をすることができる。
もう一つ。私は「間違ったことをこれ以上犯さないように」という動機から、「〇〇をしない!」という謎の決断をすることが多い。しかし聖書は、「〇〇しないように」というネガティブな教えではなく、「〇〇をしなさい」と神の命令をシンプルに教えている。私は「〇〇しないように」と思えば思うほど、神の教えとは真逆の方へ進んでいく人間である。だからこそ、神の教えを一つ一つ大切に聞き、実践していくことでそうした謎の(無駄な)苦しみから解放されるのだ、ということが分かった。

「聖書が何を言っているか」をいつも大切にし、このブログを書いていきたいと思う。