人をゆるせないことがまだあった。
ゆるせない事態を引き起こしてしまった時、「やっちまった」と思った。
わたしはまだそんなことをしているのかと、自分を非常に情けなく思った。
相手が間違っている。わたしこそが正しい。
知恵を持って言葉を発したつもりでも、それは勝手な思い込みであって、そこにキリストにあるふるまいはなかった。
イエスキリストの十字架によってわたしはゆるされている。
それを思い起こした時、どちらが正しいかと言うことから離れ、腹立たしさは何もなくなった。
と思っていたけれど、「自分が正しい」という正義の主張がまだわたしの中に残っていた。
みことばを聞く中でそんな自分に気づく。
「いま、神がわたしに語ってくださっている」そう確信しているのに、正義の主張という愚かさのゆえに、わたしは悔い改めができなかった。
周囲に、事態の真実を誤解なく理解してもらいたい。「わたしこそが正しいんだ、理解してくれ」と。
でも何度も同じことが語られていく中で、イエスキリストの赦しの深さをわたしは再び味わい、この方のゆるしで満たされ、自分の正義から離れることができた。
わたしこそがゆるされる必要があったと、教えられた。
イエスキリストの教えはいつもシンプルだ。
イエス様がわたしを愛してくださったように、わたしも人を愛する。
そして、イエス様がわたしをゆるしてくださったように、わたしも人をゆるす。
自分の感情、思い、考え。それらは思っている以上にわたしの中に根強くあり、わたしに強く影響を与えていた。
でもそこから離れさせ、キリストにある者として歩む道を教えてくれるのは、やっぱり神の教え。
“いつも神の言葉で考え歩む”というわたしの理想の人にはなかなかなれず、自分の状態を知った今回も、なんだかがっかりした。
これがわたしなんだ、とまた知った。
でも、一つ教えられたことを一つ実行する、そのスタートをいま切った。