年が明け、ショッピングへ出かける。
わたしにとっては、主から離れるものです。判断を助けてください。
そんなんだったら行かなければ良い、という考え方もあるが、家族でたのしみつつわたしは出かけることにした。
むすこ二人連れての買い物は、非常に大変なので、行く場所をきちんと決めよう。
北欧雑貨のお店だけは行きたい、と夫に伝え、了承を得る。
あれば必ず入る好きなお店へいざ。
手頃な値段と、小洒落た雑貨たちに心奪われ、いくつも手に取る。
心ときめく雑貨は、わたしの趣味。
お小遣いの範囲で買えそうだし、、あったら使えるし、、心ときめいているし。。
これくらいなら良いか。。
祈りつつ出かけても、自分の思いたいことは、いくらでも思い、そこに対する前進はいくらでもできる。
しかし、小さな店内をルートに沿って進む中で、
ほんとうに必要だろうか、と考え始めた。
御霊の働きで、はっとさせられたのである。
入店する前も祈っていたはずだし、商品を手に取る瞬間もしっかり判断していたはずだし、でも手にとった商品を見て、ふと我に帰った。
一つ、またひとつ、と商品を棚に戻す。
残った二つは、ノアの箱舟のおもちゃと、おやつを入れるお皿。
箱舟はむすこに聖書を伝えるため。お皿は、最近子どもたちが我が家に来てくれるので、その時のために。
それと、最後に商品を入れるためのかわいいエコバッグを、お小遣いから買い、お店を出た。
祈っていても、自分の思いたいことや、やりたいことが目の前に来たら、いくらでも自分の道へ進めてしまう。
祈っていた、決断した、判断した。
いやいや。御霊に聞き従う、ということがなければ、それらには何の信仰も働かないのだ。
……
そのあとの出来事。
むすこにおもちゃをプレゼントした。
一個だけ、と伝えてから。
しかしむすこは満足せず、もう一つを欲しがり、泣き喚いた。
あれこれ欲しがるのはわたしもであり、彼の気持ちも本当によくわかる。
散々そうやってきたし。さっきだって、雑貨のお店で心がときめいてしまう弱い自分である。
それでも、それがよくないものであることを受け入れ、主に頼ることを始めたばかり。
彼に、それはよくないもの、虚しいものであることを伝える責任がわたしにはある。
さっきの体験のゆえに、彼に伝える。
与えられたもので満足できないのは、ざんねんだね。感謝できるといいね。もっとほしい、あれもほしい、は罪のせいだ。まっくろな君のこの心のせいだ。
そんな言葉を伝えた。
それを伝えながら、わずか数分の間だけれど、いろんな人のいろんな言葉を思い出した。
あの人のあの言葉を言ったら良いか、、わたしのこの言い方で良いんだろうか、、。
忙しい頭である。
自分が神を信じてやるよりは、人の言葉を思い出す。
むなしい習慣。
でも、御霊が働いてくださり、自分が経験したからこそ伝えられることを、祈りながら伝えた。
そうすべきだと祈りの中で導かれたのだ。
そして、「今日はこのひとつがあなたに与えられた。これに感謝しよう。」と。
むすこは、散々泣き喚いた後にうなずいた。
……
それ以降、買い物へ出かけても必要なものが売ってなかった時、「きょうは買わないの?」とむすこに聞かれたら
「今日はなかった。与えられる時に買うんだ」と伝える。
それを、ただ言葉によってではなく、自分が主と共に買い物に出るからこそ伝えることができるようになった。
以前にも、言葉だけで伝えたことがあるが、
自分の心と行動がそうなっていないから、あまりにも変な気持ちだった。
綺麗事を言ったって、信仰が伴ってないのだから、子どもだってよくわかる。
でも、信仰によって行動していくと、むすこにも変化がうまれる。
今度は、
「必要なものはなに?」と聞くようになった。
「そうか!あれは必要じゃないんだね!」とか。
与えられているものに感謝すること、それに満たされることを私自身が味わうようになると、
自然とむすこも、「あれほしい。これほしい。」が減ってきたように思う。
「えぇ!おかぁーさん!?うれしい!ありがとう!」が増えた気がする。
まだ3歳。どこまでの理解かはわからないけれど、ほしいから買いたい、から少しは変化がうまれているだろうか。
3歳になった我が子を見た時、あぁ、私に似てしまった、、どうしようか、、
と思う時がある。
でもわたしが神様によって乗り越えたことは、証として伝えられる。
正しさやまねではなく、信仰によって、むすこと関わることがうまれる。
そして、その子育ての中に、神の栄光があらわされることを、わたしは信じる。