(涼しかった朝の山中湖)
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結婚する少し前ぐらいまで、「自分を知る期間」があった。
それは今でも変わらないのだけど、その時は特に、自分がどういう人間なのかを教えられる強化期間のようだった。
自分を知ることは、自分の中にあるたくさんの理想像を置くことだった。
理想はあくまでもわたしから出てくるただの理想であって、神によって自分を見たときには、当然その理想とはかけ離れている。
しんどかった。
だって自分から出てくるものは、本当に罪の性質しかないから。
傲慢、プライドが高い、理想が多い、支配的。
これがそのときわたしが見せられた自分。
仕事を通して、メンタリングを通して、人間関係を通して、そして最もはみことばを通して。
たくさんの問題があったけれど、これら全てによって行き着くのは、自分を知ることだった。
今思い返せば、どう考えたって「これがわたしなんだよ」と言えるけれど、当時は「そんなはずはない(もっと良い人間のはずだ)」と言う強い思い(願望)があった。
あるいは、「みんなだってそういうところあるじゃん!」という更なる傲慢さによって、自分を受け入れるには時間がかかった。
でも神の忍耐とあわれみによって、少しずつ本当の自分を受け入れていくことができた。
理想とは程遠い自分の情けなさや惨めさを思わなくはなかったけれど、神は、それでもわたしを愛して支えてくださる人たちを絶えず周りに置いてくださり、わたしはいつも愛されていることを、いつも体験した。
そして、自分を知ることで味わった痛みや苦しみは、神によって癒やされる。
だってイエス様がこんなわたしのために十字架にかかってくださった。
自分を知れば知るほど、その恵みの深さを味わう。
自分を知る、ということがなかったら、わたしは今でも神の前で正直にはなれず、神の言葉を聞くときにも、心からの実践ではなく、うわべだけの受け取りをして、自分が変わるべきところを受け取らずにいただろう。
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友人が「いま、自分にあるたくさんのものを剥がされて、自分を知る時なんだ」と教えてくれた。
彼女を祈る中で、自分にもその時があったのをこうして思い出させられる。
ただ当時の話をすることや、偉そうに知識で励ますことは簡単なのだけど。
証にこそ励ましがある。わたしはそのとき神によって何を得ただろうか。祈りながら思い起こす。
最もは、「解放」だった。
当時の自分と比べて、いまのわたしは明らかに自由になって、神にある歩みがたのしくなった。
これが神のわざ。
もうあれだけ置いてきたはずなのに、いまでも「理想の自分」は出てくる。
だからみことばを学び、神からでないものを、自分の歩みの外へ置く。