「もう無理だ。何もしたくない。」
そうやってすべてが嫌になることが、私は時々ある。先日、そんな朝があった。
自分ではもうどうにもできないと分かっていたため、神に祈り、助けを求めた。そして、誰かから力を受けたいと思った。いや、「力を受けたい!!!」、ビックリマークが三つついてしまうほどに、心底誰かから力を受けたかった。決して誰でも良かったわけではない。神を愛して歩んでいる人に会いたかった。
会いたいと思い浮かんだ存在は、敬愛する私のリーダーだった。
しかし、それと同時に、ネガティブな私の性質が「会いたい」と思う私の行動を邪魔した。厳しい言葉をかけられるのではないか、忙しいのではないか、何に苦しんでいるのかさえよく分かっていないのに、行っていいのだろうか。いくらでもネガティブな思いや考えが出てきた。
それでも今回は、「とにかく力を受けたい」という思いが勝った。会いに行くことで、絶対に力を受けるという確信があった。それは、リーダーが何を言うか、どんな反応をするか、(それはやっぱりちょっとドキドキはしていたけれど)に期待したわけではなく、神がその時間を導いてくださるという期待と確信のゆえであった。そして、「神様、委ねます」と、頭で色々な計算をすることをやめ、訪ねた。
いざ、会いに行くと、リーダーは喜んで私(と息子)を迎え入れてくださった。「元気?」と聞かれ、「元気がないから来たんですぅぅぅ」と会った次の瞬間から号泣してしまい、それほど私は自分の限界が来ていたことを知った。
リーダーとの時間は、想像していたよりもずっと豊かなものだった。(やっぱりどこかで想像していたのか…)そして、私は力を受けた。それはもう、ものすごく。この時間は、神があらかじめ整えてくださっていたのだと、後になってよく分かった。
これらの体験をした後の礼拝でのメッセージ。【ルカ12:4~7】この箇所を通し、私は誰を恐れるべきなのかを思い出した。そして、私はすでにその体験をしていたことを、 神に感謝した。
私は人を恐れることに、とても忙しくしている。しかし、そこに留まり続けるなら、神が用意しておられる力、励まし、祝福を受け取れないことがわかった。逆に言うならば、神を恐れ、一つひとつ決断していくなら、神が用意しておられる力、励まし、祝福を確実に受け取ることができるのだ。
今回で言うならば、力を受けると共に、久しぶりに愛するリーダーと話す時間が与えられ、私はその祝福を十分すぎるほど、味わった。
かといって、決して人を恐れなくなったわけではない。
だからこそ、神を恐れるというある意味その訓練を、御霊の助けによって一つひとつ大切に乗り越えていきたい。