少し前に、車をひどく傷つけた。
スーパーの駐車場から左折で出ようとして、左側にあったポールにがっつりと擦ってしまった。擦った瞬間に止まることなく進み続けたため、ドア2枚を交換するほどになってしまった。
あなたはこのことで何を学んだのか、と夫に問われた。私はこう答えた。
「基本的に私はフィーリングで運転をしている。“きっと大丈夫だろう”で運転していることが多い。今回はそれが大丈夫じゃなかったから、これからは確実な運転をしていくんだ。」
良い答えだと思った。が、夫はこう言った。
「結局そうやって “もっとこうしていれば大丈夫だったんだ”とか、“どんなに気を付けていても、やるときはやるんだよね”とか、そう言うのは、神を知らない世の人たちと同じだよ。」
神を見て教えてくれていることなのに、私は珍しく腹が立った。夫は免許をもっているくせにいつも運転せず、いつだって私の隣でこの上ないリラックス状態で座っているのだ。そんな彼を見て、なんて幸せな人なんだと癒される時も沢山あるが、「運転しないくせに言うな」と今回は感情的に返答してしまった。でも彼はこういうときだって冷静に、神を見て、わかっていることを伝えてくれる人。「だからわかるんだよ。運転できる人はどうしても技術的な話に行きやすいんだと思う。でも、そのどこに神がいるの?自分の弱さ、たとえば息子がぐずぐずしていると運転に集中できないとか、そういう自分の状態をよく理解して、それを神に祈って運転する。それが神を信じている私たちのすることなんじゃないの?」
「神を信じている私が、神を知らない人と同じ考え方や、問題の見方をしている」と指摘され、その現実にすごくショックを受けたが、まだ腹を立て続けていたため、その夜は神に正直に祈ることもせず、考えるのもやめてしまった。次の日あたりから、その問題に向き合う中で、夫を通して教えられたことは真理だと思った。神を信じている人の視点を学んだ。そして、問題の中で神を見ていなかったことを悔い改めた。だから今は、どんなに急いでいても一言祈り、神に頼って運転をする。そして、これまで以上に神の守りを味わう。
神を信じている人は、いつでも、どんなことの中でも神を認識できる。今回は夫を通して、それを教えられた。