自分の抱えていることを話した時、「話さなければよかった」と思ったことがある。
思うように伝わらなかったり、予想もしていなかった影響が周りに広がってしまったり。
やっぱり自分は目立った問題を起こしてしまう人間なのだと、とてもがっかりして嫌な気持ちになった。
自分はどうしたって、自分なんだ。
自分の思いや悩みをあらわすこと、何かに参加すること。
とても嫌になった。
でもそれを話したら、
「わたしを用いてください、と祈ればいいんだよ。」
そう教えられた。
〇〇しないように、そうならないように、と考えていたわたしだったが、
「あぁ、そう祈ればいいのか!」
一瞬でわたしはその嫌な気持ちから解放され、心がぱぁっと晴れた。
それからは、この祈りがわたしの日々の祈りになった。
いろいろな理想があるわたし。
用いられ方にさえ理想があるわけである。
“あの人のように(かっこよく)用いられたい”とか。
でも、主がこの不完全なわたしのすべてを用いてくださる。
良いところも、弱いところも。
その信仰を持って祈り、その日を始めるなら、
主に仕えることに、自由と喜びを心いっぱいに味わうようになった。
自分に与えられているものに気づくようになり、そこに心からの感謝がうまれる。
用いられる、ということを、自分の予想もしていないところで体験し、
主の働きを、今まで以上に味わう。
最近では、子どもと関わるときや、ノンクリスチャンの人に触れるとき。
わたしは得意でない。わたしはあの人のようにできない。導けない。
そんな思いがあって誰かに任せていたこれらの関わりも、
「わたしを用いてください」
この祈りによって、喜びと、主への期待を持ってできるようになった。
与えられた祈りに感謝。