夫を尊敬している。
ただ神によって、ただただ神の言葉によって自分を変え、変えられ、生きている人。
彼がみことばを聞いて何を受け取ったのかを聞くと、わたしは本当に恵まれる。
いつもそこにあるのは、神の言葉を愛するゆえの従順だから。
そんな彼といると、尊敬も度を越して「こちらも彼のようになれるのではないか、いやなりたい」
そんな思いが出てくるわけである。
みことばを聞いた後のディスカッション。
これは自分が何を神から教えられたのかをあらわす時間なのだが、ここで「夫のように」が出てくる。
“彼のように理性的で、シンプルで、誰もがうなずく一言を!”
でも当然わたしにそれができるはずもなければ、神がわたしに示されることは、彼とは違う。
だから理想的な彼のディスカッションができず、落ち込み苦しむ。
どう見たって疲れているお昼休憩中の夫に泣きながら電話。
「御言葉を聞くとき、やっぱり“あなたのように”が出てくる。どうしたらいいのか。あなたは今回何を受けとったのか教えてよ!」
多くをしゃべる妻に、今回も夫はたった一言だけ。
「その“どうしたら良い”をまず置かないと」。
そして、彼が学びを通して何を受け取ったかは教えてくれなかった。
「これがあなたの正解になっているから。あなたが解放されるまでは言わない」と。
妻に甘々な夫が、めずらしくはっきりとしていて強気の姿勢だった。
よっぽど自分がおかしい状態にあることを見せられた瞬間だった。