教会の子を預からせてもらう機会が与えられた。
ただ子守りをするだけの時間ではなく、神を伝える時間とさせてくださいと祈って迎えた。
自分には伝えることが与えられているから、この賜物によって子どもたちに神を伝えたいと。
どんな時間になるかは想像もできなかったけれど、信じて祈った。
でもなかなか神を伝えるチャンスがなかった。
いよいよ伝えられずに時間が終わってしまうのかと焦り、「聖書は読んでいるの〜?」などといった、明らかに自力の会話を始めてしまった。
でもそれは自力だから、この会話のどこで、どうやって神を伝えられるかわからず、限界を迎えた。
今日はだめか、と諦めかけていた時、チャンスが来た。
1人の男の子がシクシク泣き出した。
「どうした?」と聞くと、「つまんないからお家に帰りたい」と。
「え、ついさっきまであんなに楽しんでいたのに!?え!?何がそうさせてしまったんだろう!?」
わたしはショックでしばらくフリーズしてしまったが、落ちついて聞いてみる。
「さみしくなった?ママに会いたくなったの?」
すると彼は「うん」とこたえた。
この会話の前に、彼はお腹の調子が優れず、とても苦しんでいた。
トイレでシクシク泣いていたから、その影響があったのかもしれないと思った。
(もしかしたら、あんなに見たことないぐらいはしゃいでいたのに、本当に本当につまらなかったのかもしれないけど、、!)
彼をお家へ送り届けた時、2人の時間が与えられて、まだシクシク泣いていた彼に「お腹苦しい?神様にお祈りしよう?」と言って、神様に癒しを祈った。
「この子が神様あなたの癒しを体験できますように」と。
これが神の働きによって与えられたチャンスで、誰が彼の苦しみを癒すのかをあらわす時だった。
……
「あの人のように聖書を教えられないし、あの人のように導けない」、そうやってまた理想を持って子どもたちと関わることに尻込みしていた部分があった。
でも、むすこが与えられたことや、次の世代の子どもたちの成長を見るとき、わたしには神を伝える責任があることを、はっきりと認識させられる。
伝える、ということがわたしに与えられている。
伝える、ことは自分の中にある神を伝えるということ。
自分が何を信じていて、何によって歩んでいるかを。
これがわたしの使命。
それをこの1人の存在を通して、再認識した。
方法や知識ではなく、わたしの中に働いてくださる偉大な神様を、この子どもたちに惜しまず伝えていきたい。