わたしの模範はイエスキリスト。
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「あの言い方がいやだった」「あの言葉がいやだった」「あの表情がいやだった」
わたしは、人の言い方、言葉、表情、それらに対してほんとうに弱い。
嫌な思いをすると、相手を責めたり、裁いたりしてしまう。「当然あなたがわるいのだ」と。
これはわたしの人生で度々出てくることで、一度クリアしたと思っても、また次がやってくると、そこから抜け出すにはとても時間がかかる。
最近も一つそんなことがあって、祈って、神に委ねていた。「神様、あなたにによってこのことを考えるなら、わたしはどうしたら良いのか教えてください」。
神がどう導いてくださるのか、ドキドキしていた。その過程に痛みや苦しみがあるのがこわかった。
でも、自分から出てくるものの中に、神はいないことを教えられる日々。神にゆだねるしか、神にある歩みはできない。
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神は、神ご自身の言葉によって、こたえてくださった。
ルカ22:24−27
“また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。
すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。
食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。”
イエス様が十字架の上で死なれ、葬られ、三日目によみがえられた。神なのに人となってくださった。この方がわたしに仕えてくださった。
だからわたしも人に仕える。
それを教えられた。これが祈りのこたえであることを、あまりにもはっきりと見せられ、感動をおぼえた。
神は必ず祈りにこたえてださる方。
でも、このことを受け取った時、「よし!仕えるぞ!」。一瞬で自力が働いていた。
「この人に仕える心を与えてください」その祈りを導かれ、いまわたしはその祈りの中にいる。
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「愛せない」「ゆるしたくない」そうした感情が、イエスキリストによって救われたのに出てきてしまうことがある。
でもその度に、わたしは何によって救われたのか、何から救われたのか。だれによってゆるされ、愛され、生かされているのか。そこに戻らされる。
心を癒すのも、前に進む力をくださるのも、この方。
イエス様がしてくださったように、わたしもする。模範はイエス様。