「いらない感情を置き、いらない理性を置き、霊によって見、考えることができますように」
そう祈られた。
この人と話をすると、いつも涙が出る。下手したら、会った瞬間に泣ける。
神を深く愛し、それによって自分の内面に触れる人だからだと思う。
悲しいのか、苦しいのか、感じるよりも前に涙が出るので、「なんで泣いているのか」と聞かれても「わからない」。
祈られ、導かれても、泣きじゃくるわたしに、何度もこの祈りの通りに、感情的にならず、落ち着いて霊によって考えることを、支えてくれた。
必死にいらない感情を置くようにと、祈りつつその時間を過ごしたが、結局最後まで涙は出続けた。
それからの数日、この祈りが自分の祈りとなり、ひたすらこれを主に求めた。
ある日、長男の姿を通して、自分の姿にハッと気づかされた。
泣き虫な彼は、泣き叫んで話す時が多くあるので、その度にわたしは「泣かないで落ち着いて!ちゃんと話して!」と、パニックになっている彼に落ち着くよう、うながす。(そんな自分が一番パニックだろう)
いや、これって泣きじゃくって混乱するわたしじゃん、、
ハッと気づかされる。
感情的になっていたら、神様から与えられている状況を正しく見ることはできないんだ。
ますます祈りが深まる。
夫によく、「もっと自分を客観的に見な?どうしてそんなに自分中心なの」と笑われる。
笑われるほど感情的なのか、、ケラケラ笑う彼を見て、理性を取り戻す。
いらない感情を置き、いらない理性を置き、霊によって考えられるように。
感情が先立つ癖は、すぐに出てきてしまうけれど、この祈りが自分を支え、その瞬間に気づき、主に助けを求めるようになった。
すると、神にあって、霊にあってみるならどうなるか、を見るように導かれる。
まだまだそれを繰り返している。
自分は感情的な人間だから、と諦めたり、開きなおることではなく、主にあるなら、それらのバランスも与えられるのだ、と神様からの励ましを受けた。
このバランスは、主の計画と導きに集中する助けとなった。
祈られている恵みと、信じて祈れる恵みに感謝。