美味しいご飯が毎日、三食、与えられている。
健診で赤マルがつかない程度を目指しておやつも頂く。
何もしていないのにお腹は空くので、動けなくなってからより一層食事の時間が日々のたのしみである。
でもご飯を食べていると、惨めさにおそわれるようになった。
何も動いていないのに食事をたのしみにしている自分。その姿はあまりに惨めで仕方なかった。
今でもそれはあって、どうしても涙がこぼれてくる時がある。
そんな中で、食事ができることが当たり前ではないことを教えられ、感謝もうまれてきた。
そして、神の家族が届けてくれる食事に癒されている。
自分にあるなら惨め、神にあるなら感謝。
キリストによって救われているのに、惨めなんて言っていいんだろうか。でも感じてしまっているから、神にもあらわす。
まだ惨めさと感謝が行ったり来たりしている。
解放されることを祈り続ける。
(写真は夫31歳のケーキ)