南足柄 クリスチャン 20代 二児の母 日々のレポート
必要性で買う
必要性で買う

必要性で買う

必要性で買う、ということを教えられた。

いや、きっとこれはずっと前から、何回も教えられていたはず。

……

「必要性で買う」と言う人を見て、わたしは何て窮屈なのだろうと思ってきた。

いちいち、必要か必要じゃないかを考えて、それから買うなんて、わたしには御免だと。

わたし:「〇〇(夫の名前)!これかわいい!買っていい?」

夫:「ええ、それは必要なの?」

わたし:「いや、これは運命の出会いなんだ。大事なのはときめき。ねぇ、おねがい?」

今こうして文字にしたことで、自分のあまりに幼稚な実態に驚くと同時に呆れた。

でもこれがわたしの買い物の仕方なのである。

「あったらいい!」「かわいい!すてき!」「ほしい!」

本当に、ただの欲であることを、じわじわと知る。

「家計は妻の膨大なおこづかい」。

夫の数ある名言の中の一つである。

……

でも今回教えられたことをはじめてみた。

“必要性で買う”ということ。

すると、色々なことが見えた。

まずは、もうすでにわたしの必要性は、あらゆる面で、神によっていつも満たされていること。

家、車、着るもの、食べるもの、使うもの。支払い。

何一つ困っていることがない。

その事実が当たり前になってしまっていたけれど、それがどれだけの恵みなのか、またその恵みを数えるたびに、自分がどれほど神に愛されているかを深く味わう。

日々の生活の中で、たくさんの感謝がうまれた。

次に、神様のために捧げるものがたくさんあること。

今まではわたしのおこづかいとして使ってきた家計だけれど、必要性で買うという視点に立った時には、欲にまみれた使い方にストップをかけることができた。

そして、神様のため、あるいは自分に与えられている人のために使うことを、あまりに自然に始めた。

捧げるのか、自分のためか。

窮屈に見えた“必要性で買う”ということには、たくさんの自由があることを味わった。

もう一つは、お金はこの世の一時的なものであること。

お金を一枚ずつ数えているその瞬間、「これはただの紙切れなんだ」と虚しさがわたしの心を一気に襲った。

天には持っていけない、この地上のものであり、そんなものに縛られる必要はないんだと。

でも、ただの紙切れに魅力を感じ、そこに陥ってしまうのがわたしの弱さであり、そこから守られることを祈る瞬間にもなった。

……

与えられているお金を、与えてくださっている神によって使うこと。

そこにはたのしみと喜びがあった。

日々、そこら中に誘惑はあって、いそいそとそこへ行ってしまう弱さがある。

でも祈りがあれば、それを避けることができるから、絶えず祈ろう。

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