聖書の学びや礼拝でのディスカッション。
夫と私は少し前からこれにチャレンジを始めた。
あらわすことが苦手だからこそ、あらわすこの機会にチャレンジしている。
その理由は、ディスカッションを通して、とても恵まれているから。周りの人があらわしたことによって、また牧師の更なる導きによって。
昨日の礼拝ではどうだったか。
これを受け取った!と確信を持ってあらわしたけれど、牧師の言った、たった一つの単語に変に反応してしまい、本来語られている内容とはズレた受け取りをしていることがわかった。
家に帰っていつものように、今日のディスカッションを夫に話す。
「今日神が語られることをよく聞くことができるように、と祈って行って、これだと確信を持ったことがあったのに、本来語られている内容とズレているってどういうことなのさ?」
そんなことを言う私に夫もしばらく困って笑い、言った。
「そのプライドを置くことじゃないの。」
自分の受け取り方が、語られている内容とずれている、この現状を悔しがることしかできない自分を知った。
一晩かかって、この悔しさに留まるより、御言葉をよく聞けるようになりたいと思った。そして、御言葉を聞くとき、御霊の助けが必要であることをますます祈るようになった。
自分が正解を言えるかの勝負ではなく、導き手を信頼して自分が受けとったことをあらわす。
それによって神の言葉を正しく受け取れることを選んでいきたい。