南足柄 クリスチャン 20代 二児の母 日々のレポート
子と関わる、信仰と愛。
子と関わる、信仰と愛。

子と関わる、信仰と愛。

 

夫が先に話していた。

なにを聞いても「わすれた」しか答えない。

わたしもこの子と話したいので、質問をするも、すべて「わすれた」としか返ってこない。

でも好きなことはよくしゃべっている。

「さっき何食べた?」これなら数分前に食べたばかりなのだから、答えられるだろうと思っても、「わすれた」。

来年小学生になる彼。これだけ賢く、立派にしゃべれるのだから、忘れたはずはないだろう。。

面倒なのだろうか。「わすれた」と一言で返され、悲しくなるわたし。

この子と関わりたいのに、できないのである。

また祈りつつ、主に頼る。

どうしたら良いでしょうか主よ。関わりたいです主よ。

すると、いよいよ帰ろうと片付けをしている時にチャンスは来た。

「ねーねー、〇〇〇〇?」

なんと聞かれたか忘れてしまったが、彼がわたしに一つ質問をしてきた。

わたしは瞬時にチャンスだ!とわかり、「わすれた」と答えた。

彼がわたしに何度も言ったその言葉を、そのまま返す。

咄嗟に出たその言葉に、自分でも驚く。

普段のわたしならこんなこと言わない。御霊がはたらいた。

すると彼は、目を大きく開き、咄嗟に、「あ!さっきのこと思い出した!えっとー、まぐろとー、ポテトとー、、あとはー、、」

「え!思い出したの!すごいじゃん!よかったー!うれしいよ!……ねぇ、今こうやって話してみて、どうだった?」

「たのしかったぁ〜〜」

彼はそう教えてくれた。

「わたしもだよ!また話そうね」

でもやっぱり、その日礼拝で聞いた聖書の話など、思い出せなかったこともまだあったようなので、それはまた思い出したら教えてね、と夫と2人で伝えた。

わすれた、ということで会話はそれ以上進まないこと。会話をする先にある喜びを、彼は少しでも体験できただろうか。わからない。

神様の働きによって与えられたこの会話のチャンスに、ハレルヤ、と心から主を褒め称えた。

……

最近、色々な子と関わる機会が与えられている中で、やっぱり「どうやって!」に行ってしまうことがあり、にっちもさっちも行かなくなった。

「どうやって!」と求めるのはわたしの得意なことである。

愛することと、信じることでやっていても、時々ここに陥ってしまう。

特に、頑なに話さない子、好きなこと以外のことは話さない子。

わたしにもあることだから、一概に責めたり、なんでなんだろう、と腹を立てることはないが、困難さはおぼえる。

他の人がどうやってその子たちと関わっているかを見て、まねしてみても、それはただのまねでしかないために、信仰は伴わない。

ここぞとばかりに夫に「どうしたらいいかね」と相談するも、「信仰。それとも、私たちはアイディアで乗り切っちゃう?」

こちらは真剣に聞いているのに、嫌味な言い方だなぁと思いつつ、

あぁ、やっぱり信仰なのか。

教えられ、また神を信じて関わることに戻される。

わたしにとって、「どうやって」は、わたしが主を信じて行うことから、大きく離れさせるもの。

ほんとうに良くないものだ、とひしひしと味わう。

今回の体験は、この話をした翌日のことであった。

……

愛することと、主を信じることの素晴らしさ。

この体験が、次への信仰を大きく強める。ハレルヤ。

 

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