夫が先に話していた。
なにを聞いても「わすれた」しか答えない。
わたしもこの子と話したいので、質問をするも、すべて「わすれた」としか返ってこない。
でも好きなことはよくしゃべっている。
「さっき何食べた?」これなら数分前に食べたばかりなのだから、答えられるだろうと思っても、「わすれた」。
来年小学生になる彼。これだけ賢く、立派にしゃべれるのだから、忘れたはずはないだろう。。
面倒なのだろうか。「わすれた」と一言で返され、悲しくなるわたし。
この子と関わりたいのに、できないのである。
また祈りつつ、主に頼る。
どうしたら良いでしょうか主よ。関わりたいです主よ。
すると、いよいよ帰ろうと片付けをしている時にチャンスは来た。
「ねーねー、〇〇〇〇?」
なんと聞かれたか忘れてしまったが、彼がわたしに一つ質問をしてきた。
わたしは瞬時にチャンスだ!とわかり、「わすれた」と答えた。
彼がわたしに何度も言ったその言葉を、そのまま返す。
咄嗟に出たその言葉に、自分でも驚く。
普段のわたしならこんなこと言わない。御霊がはたらいた。
すると彼は、目を大きく開き、咄嗟に、「あ!さっきのこと思い出した!えっとー、まぐろとー、ポテトとー、、あとはー、、」
「え!思い出したの!すごいじゃん!よかったー!うれしいよ!……ねぇ、今こうやって話してみて、どうだった?」
「たのしかったぁ〜〜」
彼はそう教えてくれた。
「わたしもだよ!また話そうね」
でもやっぱり、その日礼拝で聞いた聖書の話など、思い出せなかったこともまだあったようなので、それはまた思い出したら教えてね、と夫と2人で伝えた。
わすれた、ということで会話はそれ以上進まないこと。会話をする先にある喜びを、彼は少しでも体験できただろうか。わからない。
神様の働きによって与えられたこの会話のチャンスに、ハレルヤ、と心から主を褒め称えた。
……
最近、色々な子と関わる機会が与えられている中で、やっぱり「どうやって!」に行ってしまうことがあり、にっちもさっちも行かなくなった。
「どうやって!」と求めるのはわたしの得意なことである。
愛することと、信じることでやっていても、時々ここに陥ってしまう。
特に、頑なに話さない子、好きなこと以外のことは話さない子。
わたしにもあることだから、一概に責めたり、なんでなんだろう、と腹を立てることはないが、困難さはおぼえる。
他の人がどうやってその子たちと関わっているかを見て、まねしてみても、それはただのまねでしかないために、信仰は伴わない。
ここぞとばかりに夫に「どうしたらいいかね」と相談するも、「信仰。それとも、私たちはアイディアで乗り切っちゃう?」
こちらは真剣に聞いているのに、嫌味な言い方だなぁと思いつつ、
あぁ、やっぱり信仰なのか。
教えられ、また神を信じて関わることに戻される。
わたしにとって、「どうやって」は、わたしが主を信じて行うことから、大きく離れさせるもの。
ほんとうに良くないものだ、とひしひしと味わう。
今回の体験は、この話をした翌日のことであった。
……
愛することと、主を信じることの素晴らしさ。
この体験が、次への信仰を大きく強める。ハレルヤ。