この数年、教会の中で奉仕をやっている人を見て、羨ましいと思ってきた。
でも、輝かしく見えるどの働きを見ても、自分にできると思うものはなかった。
楽器、歌、PC、勉強、何かをつくること、教えること。
でもこんなにも神に愛され造られた自分に、与えられているものが絶対にある。
今はわからないし、想像もできないけれど、その信仰は少しずつ強められていき、神様に静かに祈りながらその時を願ってきた。
そして、3年ほど前、子どもに仕える奉仕が目の前に来た。
そこに参加するかどうかを決断するまでに、確か少し時間がかかったと記憶している。
神関係以外で考えると、いくらでも決断は揺らぐことを知る時だった。
だけれど主がその中においても導き続けてくださり、わたしは主にこたえることができた。
与えられている信仰でいけば良いのだと、確信が与えられたから。
「信仰が賜物だとどうして思わないの?」
何年も言われてきたこの言葉は、今、神への信仰告白と変えられている。
でも、かつての自分はどうして思わなかったのか。
それは、神関係以外で考え、求めていたからなのだと、振り返ってみて思う。
今、この奉仕の場に立たされるたびに、主がこの信仰を導き、使おうとしてくださっている、いや、使ってくださっているのだと、いつも神関係が豊かにされる。
わたしは最高の賜物を頂いているのだ。
かつて大学を卒業する時、わたしは児童福祉に携わりたいと願っていた。
だけれど、主がはっきりとその道を閉ざした。
よく覚えている。人をダメにするクッションに座り、導かれたその時のことを。
まずは信仰の土台をしっかり築くこと。そのためにまず座って御言葉を学ぶ。それから立って。そして歩きだす。
そこに時間をかけることを導かれた。
あれから長い年月が経ち、分野は違うけれど、子どもという小さな存在に関わり、ひたすらに愛するチャンスがゆるされている。
信仰で立たされているという主のわざ。ハレルヤ。
