いつだって外で働きたい人間である。
しかし、ただ子育てが嫌だから仕事をしたい、という動機では絶対に復帰しないと決めていた。
神によって家庭に入ることを選んだから、また神の時で働かせてください、という祈りがいつもあった。
仕事から離れて2年ほどが経つ。
「なぜ働かないのか?」と問われた。
わたしは「まだこどもが小さく、子育てがある。祈ってはいるけれど、まだ示されていないからです。」
ここから、導きをいただいて、考えることが一気にはじまった。
与えられている能力、賜物がある。時間がある。
なぜ使わないのか。
しかし、今は子育てがある。
むすこたちが小さいうちは一緒にいたい。今しかないこの時間をたっぷりと。
母親としてあって当然の思いではないか。
しかし、ではいつまで、わたしは言い続けるのだろうかと。
「まだ時じゃないんです」「まだ子どもがいるので」「まだ示されていないんです」。。
町につかえたい。この町で神を伝えたい。という思いがある。家庭の指針もそうである。
いつ、わたしはそれをはじめる?世がこんなにも滅びへ向かっているのに。
思いがぐちゃぐちゃだったので、導きを求めて夫と話す。
夫には、働くことの許可なんていらないとわかっていた。
「キリストにある」ということだけのルールでやっているわたしたちだから、キリストにある決断に、夫は「そっか」しか言わないことを知っていたから。
でも、夫が「働くべきだ」と言えば、きっとそういう方向で考えるし、
「いや、今は家庭に集中するべきだよ」と言えば、きっとそういう方向で考える。きっと。
なんとかどちらかを答えさせようと試みたものの、
「あなたの決断次第だよ」、ただそれだけ。
もっと多くの前進できる言葉を求めているのに、彼は困った顔でそれしか言わない。
わたし自身がが神との間で決断しないと、後で大変なことになるのを、彼はいつも知っている(経験している)。
「一つだけ言えるのは、やりたいことではなく、やるべきことをやるべき。そして、悩むことを楽しまないこと。」
そう言って、去って行った。
わたしのほしい答えは、絶対にくれない夫であることを、私はいつも忘れている。
自分の思いと、神に示されていること。
それをひたすら祈り続けた。
誰かに決めてほしい。誰か、言葉をくれ。
何度もそう思ったけれど、これは自分が神との間で決めることだと、何度も祈りに戻される。
悩むことに酔いしれてはいけない、と自分に言い聞かせながら。
そして、結論。
祈り会の中で、「神の怒りから、一人でも逃れることができるように。」
その祈りが導かれ、わたしはその瞬間、働くことを決めた。
小さな者だけれど、先に福音を聞いた者として、そこに用いられることを信じて。
そして、ぐちゃぐちゃだった思いも、
子どもと(ずっと)いたい=やりたいこと。
働く=やるべきこと。
そこに至った。
求めている条件は、この町につかえること。
そして、子どもを捨てない(週3で働く)(いくらでもわたしは仕事をしたくなってしまうだろうから。子育てとのバランスのために)。
この2つ。
子どもたちと一緒にいる時間が短くなる、ということが、最後まで手放せないわたしの思いだった。
でも、そこも神はわたし以上に知っておられるし、神によって満たされていくことを信じた。
四六時中一緒にいる今より、もっと豊かな時間が与えられるかも。。
この二つの条件、これがわたしの考えられる精一杯。あとは神に委ねる。