南足柄 クリスチャン 20代 二児の母 日々のレポート
偉大な神を思い出す
偉大な神を思い出す

偉大な神を思い出す

「ほとんど全てのことに対し、不安を抱いて生きている私だが、出産に対する不安は実はあまりない。もう痛くても何でも産むしかないのだろう、と落ち着いている。」
前回のブログで私はこんなことを言っているが、(やはり)そんなはずはなかった。退院してから、もう不安で仕方ないのである。

昨日、無事に入院生活を終えることができた。
寂しさによって泣かなかった日は、多分なかった。しかし、神の平安と守りを何度も何度も思い出す時であり、また、“神がすでに用意しておられる最善のタイミング”を待ち望む、忍耐を学ぶ時であった。
私は与えられているものをすぐに忘れる。何か一つ事が起きると、心がすぐに揺らぐ。そんな弱い自分をまた知った。だからこそ神により頼む、というよりは、必死ですがるような毎日だった。

退院する前日、院長先生が回診に来た。
院長「明日退院なのにまだ点滴をしているのか。濃度を下げよう。」
きつめの看護師「腕腫れちゃってるね、差し替えだ。」
院長「いや、もう抜いちゃおう。もう産んで帰るようかもな。」
院長ときつめの看護師去る。
担当医がやってくる。
私「院長先生が点滴終了にしました涙」
担当医「そりゃ困ったね。もう産まれちゃうもんね。院長先生にお願いして退院まで点滴しよう。」
私「お願いします涙」
まるで嵐のように去っていった院長先生に腹を立て、担当医が女神のように思えた(男性だけど)。しかし結局その後、腕の腫れがひどく、これ以上刺すところがなくなり、退院日前夜に抜かれることとなった。この 出来事を通し、私は出産に関して、この世の基準や人の判断に信頼を置いていたことがわかった。神がすでに用意してくださっている、最善のタイミングに希望を置くよりも。聖霊の働きにより、悔い改め、向きを変えることができた。

しかしいつ、そのタイミングが来るかわからないゆえに、また、入院中に聞こえてきた数々の「痛い」という叫び声を思い出すと、不安でいっぱいになる。
そんな状態での今朝のデボーション。
箴言1:7「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」
箴言15:16「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。」
この箇所を通し、自分が神を恐れていなかったことに気づかされ、悔い改めた。そして、この唯一の神は、すべてのものの上にある、偉大な神であるという平安も、思い出すことができた。出産の痛みも苦しみも、この神が乗り越える力を与えてくださる。

今自分ができる準備をし、神の用意しておられる最善のタイミングを、とてつもなくドキドキしながら待っている。神にある平安と守り、希望を思い出して出産を迎えられる、この優しい神の愛に心から感謝である。