久しぶりに、申命記の学びに参加するチャンスが与えらえた。
そう、“チャンス”だった。
いつもは夫が参加し、彼からシェアを受けている。しかしここしばらくは、夫が仕事で出られなくなってしまった。「もう!何で出られないんだよう!」と私は腹を立てた。だって、私が参加して、夫にシェアするなんて無理だと思った。そんな感情的妻に、理性的(体感的には約8割)夫は「やってみない?」の一言。これによって、この機会は「仕方なく出る」ものではなく、「チャンス」であることに、一瞬で認識が変わった。ちょうど御言葉を通して「チャンスをつかむ」ことを学び、実践を祈っていたところだった。
夫の聖書理解は、本当に素晴らしい賜物で、彼のようになんて到底できない。それでもチャレンジしてみたいと思えたのは、聖霊の働きに委ねるならば、御言葉を必ず受け取れることを、何度も体験してきたから。
学びに行く前によく祈った。「神の言葉を大切に受け取ることができるように、聖霊の働きをよろしくお願いします。」
いざ学びに出ると、自分のものとして、御言葉がすとんと落ち、受け取ることができた。
どれだけ御言葉を聞いても、どれだけ神の家族が近くにいても、自分自身が神の言葉に“信仰によって”立たない限りは、それを正しく受け取ることができない、ということが、体験的によくわかった。
夫に学んだことのシェアをした。
「とてもよかった」と言ってくれた。
私が牧師を通して語られた神の言葉を、聞き逃していたり、分かっていない部分も沢山あった。でも、夫は謙遜さによって、喜んで、大切に私のシェアを受け、学んでくれた。
「あなたのわかったことを教えてくれて、それがよかった」と。逆に言うと、よくわかっておらず、ただメモをとっていただけの部分は、詳しく説明できず、言葉を並べて語るだけになってしまった。これは次への教訓になった。
私が理解していない部分は、知識や賜物で助けてくれた。また、彼は“牧師がどのように語っているか”をいつも分析し、学んでいるゆえに、「あなたは学びに参加していたのか?」とつっこみをしてしまうほど、彼を通して教えられることがあまりに多く、学びが深く、豊かにされていった。
「いつも上から目線なあなたが、(御言葉を語るからといって)自らさらに上に行き、それが面白かった」と最後に夫が言った。分析夫は、時々衝撃的な言葉を言ってくる。
学びに行く朝、履いていく靴を数か月ぶりに磨いた。それだけ参加することをわくわくしながら、楽しみに待っていた。
私にとっての“ご褒美”は、マリメッコのマグカップを買ってもらうか、旅行へ行くか、大体そんなとこである。しかし今回の、学びに参加するという体験を一言で表した時に、自然と「ご褒美」という言葉が出てきた。それだけ、御言葉の恵みを味わえるようにさせて頂いていることが、本当にうれしい。