南足柄 クリスチャン 20代 二児の母 日々のレポート
仕事、悩み、祈り、前進。
仕事、悩み、祈り、前進。

仕事、悩み、祈り、前進。

また同じ神を信じる人たちと、共に働きたい

という思いがありつつも、

以前働いていた時の、上司に対してのいろいろなトラウマが、わたしの心と思いを占めていた。

(きっと)イライラさせたり、迷惑をかけた。

仕事を教えてもらっているにもかかわらず、メモも取らないで、何回も同じ業務を教えてもらった。

今よりもっと高慢だったために、偉そうにふるまった。

そんなことがあったので、またこの上司にストレスを与えてしまうことが、何よりもこわかった。

だから、どうにかその人がいる職場以外を探した。

なんでも知っておられる神にさえ取り繕い、「また上司と一緒に働きたい」という思いを、まるで持っていないかのように話した。

当然前進せず、二週間ほどが、ただただ過ぎていった。

祈って、相談したりもするけれど、これが神の示している道だ、というものがわからなかった。

人に相談しても、誰かが決めてくれるわけもなく、こういう時こそ、と思い夫に相談しても、「もっと神を信じたら。」それだけ。

神にまた祈る。

やっぱり、上司に対するものから、わたし自身が解放される必要がある。

目を逸らしたかったその事実に、目を向けさせられる。

こわいけれど、ここ(上司とまた働くこと)に進みたいです、と神に話す。

導いてください。自分ではどうにもできません。

踏み出したいけれど、それさえも勇気がありません、主よ。

すると、ある日教会へ向かう道の途中で、その上司の奥さんに会った。

この悩んでいることを話すと、とても導かれる言葉をかけてくれた。

なんだか緊張してしまって、彼女の言ってくれた具体的な言葉は覚えていないのだが、

たしかに御霊に導かれた時だった。

とにかくわかったことは、自分が神によって進むかどうか、それだけなのだと。

神によって決断して進むなら、その行動も責任も、神にあってかどうか、それにかかる。

人のせいにしたり、何かのせいにすることはなく、神にある決断にいつも戻れる。

その体験が、最近もあったなと思い出し、強められる。

上司に対しての不安やおそれから解放された。

 

少しも前に踏み出すことができずにいたこの二週間だったが、この時、一気に数メートル先まで、グーンと背中を押されたような感覚だった。

彼女を通して、わたしを大きく前に進ませ、解放してくださったことを、神様に感謝した。喜びでいっぱいになった。

 

祈る二週間。

ただ主が導いてくださるところへ、と教えられた祈りを毎日した。

あまりに変化のない毎日で、信じ続けることが難しく、この状況から逃げ出したいと思う時もあった。

その時には、祈られていることで強められた。

この人に相談したら、絶対にすぐに道がわかる。相談したい。

でもそれは、責任と安心を人に求めての相談だとわかっていたから、やめた。

人に頼るのではなく、神を信じることを、文字通り“教え続けられた”二週間だった。

 

神が与えてくださる時を待つことは、わたしには試練だ。

早くこの不安をどうにかしたいし、早くこの先を知りたい。

でも、神を信じることが、わたしはできる。

イエス様の十字架によって救われ、御霊がわたしの中におられる。

このわたしに与えられたポジションのゆえに、わたしは神を信じることができる。

神を信じることができる者にされた。

自分がそのような者にされたことは奇跡であり、神様への感謝であふれる。

 

神を信じて進む結果は、自分の想像もしていなかった喜びと満たしを味わう。

そして何よりも、主と共に歩んでいる、というこの上ない幸せを、今までよりももっと深く味わう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)