また同じ神を信じる人たちと、共に働きたい
という思いがありつつも、
以前働いていた時の、上司に対してのいろいろなトラウマが、わたしの心と思いを占めていた。
(きっと)イライラさせたり、迷惑をかけた。
仕事を教えてもらっているにもかかわらず、メモも取らないで、何回も同じ業務を教えてもらった。
今よりもっと高慢だったために、偉そうにふるまった。
そんなことがあったので、またこの上司にストレスを与えてしまうことが、何よりもこわかった。
だから、どうにかその人がいる職場以外を探した。
なんでも知っておられる神にさえ取り繕い、「また上司と一緒に働きたい」という思いを、まるで持っていないかのように話した。
当然前進せず、二週間ほどが、ただただ過ぎていった。
祈って、相談したりもするけれど、これが神の示している道だ、というものがわからなかった。
人に相談しても、誰かが決めてくれるわけもなく、こういう時こそ、と思い夫に相談しても、「もっと神を信じたら。」それだけ。
神にまた祈る。
やっぱり、上司に対するものから、わたし自身が解放される必要がある。
目を逸らしたかったその事実に、目を向けさせられる。
こわいけれど、ここ(上司とまた働くこと)に進みたいです、と神に話す。
導いてください。自分ではどうにもできません。
踏み出したいけれど、それさえも勇気がありません、主よ。
すると、ある日教会へ向かう道の途中で、その上司の奥さんに会った。
この悩んでいることを話すと、とても導かれる言葉をかけてくれた。
なんだか緊張してしまって、彼女の言ってくれた具体的な言葉は覚えていないのだが、
たしかに御霊に導かれた時だった。
とにかくわかったことは、自分が神によって進むかどうか、それだけなのだと。
神によって決断して進むなら、その行動も責任も、神にあってかどうか、それにかかる。
人のせいにしたり、何かのせいにすることはなく、神にある決断にいつも戻れる。
その体験が、最近もあったなと思い出し、強められる。
上司に対しての不安やおそれから解放された。
少しも前に踏み出すことができずにいたこの二週間だったが、この時、一気に数メートル先まで、グーンと背中を押されたような感覚だった。
彼女を通して、わたしを大きく前に進ませ、解放してくださったことを、神様に感謝した。喜びでいっぱいになった。
祈る二週間。
ただ主が導いてくださるところへ、と教えられた祈りを毎日した。
あまりに変化のない毎日で、信じ続けることが難しく、この状況から逃げ出したいと思う時もあった。
その時には、祈られていることで強められた。
この人に相談したら、絶対にすぐに道がわかる。相談したい。
でもそれは、責任と安心を人に求めての相談だとわかっていたから、やめた。
人に頼るのではなく、神を信じることを、文字通り“教え続けられた”二週間だった。
神が与えてくださる時を待つことは、わたしには試練だ。
早くこの不安をどうにかしたいし、早くこの先を知りたい。
でも、神を信じることが、わたしはできる。
イエス様の十字架によって救われ、御霊がわたしの中におられる。
このわたしに与えられたポジションのゆえに、わたしは神を信じることができる。
神を信じることができる者にされた。
自分がそのような者にされたことは奇跡であり、神様への感謝であふれる。
神を信じて進む結果は、自分の想像もしていなかった喜びと満たしを味わう。
そして何よりも、主と共に歩んでいる、というこの上ない幸せを、今までよりももっと深く味わう。