「この状況は与えられているものだから」
とよく言う。
私の場合、苦しかったり、思うようにいかない状況の時に使うことが多い気がする。
自分を励ますためや、納得させるために。
でも信仰になっていない時は、ただ自分をより苦しめるだけの言葉にしかならなかった。
昨日、今の状況に対してまた悲観的になった。「動けない」「息子と遊んであげられない」。
よる夫に祈ってもらう中で教えられた。
「動きたい」「何かしたい」というのも自分から出ているものだ。いま、神が、私にこの安静を与えている。
「動きたい」「何かしたい」いう思いは神にあるものではなかったことを知り、愕然とした。「動きたいという思い=良い」と勝手な考えが私の中に構築されていたのである。
でも、神からのものでないとわかったら、神が与えている今の状況を受け取ることができ、この安静状態に感謝がうまれた。「与えられている状況」というその事実にものすごい平安をおぼえたのである。
神が与えているものに悲観的になる必要はない。
今日も神が状況を与えておられる。