南足柄 クリスチャン 20代 二児の母 日々のレポート
上から
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仕事から帰ってきた夫に「私のブログどう?」と聞くと、「相変わらず上からだった」と言われた。「どの辺が上から?」と聞くと、「いやどこがとかじゃなくて全部。あなたらしいブログだよ」と言われた。
そんなことをいう夫に結婚して初めてくらいに腹を立て、15分不貞腐れていた。「どこが上からって聞いているのに!(いや、夫は確かに全部だと答えている)」「一生懸命書いたのに何よその感想!(いい証だねと言われる予定だった)」と。

15分の間に昨夜聞いた証を思い出す。
自分のありのままを受け入れることができた、という証だった。
「あなたってこうだよね」と言われ、それを受け入れていなかったら「いや、そんなはずはない」といった反応をする。しかし受け入れていたら「はい、そうです」と答えるだろうと。
それを体験したと彼女は教えてくれた。

今の私は前者だと気付いた。「上からだよね」と言われたが、「どこが上からなのよ(そんなはずはない)!」と、自分の性質を受け入れていない状態。しかし、受け入れていないことはわかった。が、どうしたらいいのかわからなくなり、「じゃあどうしたらいいの!」と泣きながら夫に訴える。すると夫は「出たよまた、“どうしたらいいの”。そうやって方法を求める」と呆れる。私がこうなると夫はこれ以上何も答えない。最後に「受け入れたらわかるよ」とだけ教えてくれた。

私はよく「上から(目線)だね」と言われる。そんな自分が嫌で、使う言葉や態度を変えてみたりして、どうにか外側から「上からでない自分」になろうとし、謙遜な人を目指していた。さらにはどうせ人なんて皆上からでしょう!どうして私ばっかり言われるんだ!と腹を立てたりし、「上からの自分」の姿を見ようとはせずに、やり過ごしてきた。
しかし今回はわかった。「これが私なんだ」と。

そこから夫が申命記の学びを始めてくれた。 今は「人格」について学んでいる。
教えられたこと。「神の言葉によって自分の人格の歪みを探す」。
私はそれを沢山体験してきたし、今回のこともその一つだとわかった。歪みが分かって悔しがるのか、神にあって前進することを祈り求めるのか。つまり、外側から変わろうとするのか、内側から変わろうとするのか。
これまでは前者の方が圧倒的に多かったが、今回は後者を選ぶことができた。それはこの御言葉を読んだから。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
神の言葉は真理であると私は信じている。

昨夜は彼女の証を聞いて「私はまだ体験できていない」と思いながら帰宅したけれど、さっそく神はチャンスをくださった。これからは、キリストにあって新しくされているこの素晴らしい恵みをもっと楽しんでいこう。

この夜、自分の人格の歪みを教えてくださり、回復と前進を与えてくださる神の憐れみと愛に、心からの感謝と礼拝をすることができた。