南足柄 クリスチャン 20代 二児の母 日々のレポート
キリストによる一致で
キリストによる一致で

キリストによる一致で

(以前公開したものを間違って消してしまったので、再投稿)

変えるべきところが示されている で書いた示されたことの一つは、
「人と関わっていないこと。そして、関わることをスタートすべきだ」
ということだった。

私が人と関わることを始めていなかった理由はいくつもあるが、今回は「この人とは共通するものがないな」という理由に目を向けることになった。
とは言っても、さすがに全く人と関わっていないわけではなくて、“話しやすい”存在はいて、そういう人との関わりを選びがち。ではなぜ、自分はその人たちを話しやすいと感じ、選んでいるのかを考えると、結局そこには“意見の一致”があるからなのだと気付かされた。考え方や感じ方が似ていて、そこに同意し合えるから。自分にとって心地よい会話で、安心できるから。でもそこに立つときに、それは果たして神に喜ばれるものなのだろうか、と自分自身に問いかけるようになった。そして、神との関係の中で、それはただ“自分にあって”のものなのではないか、と教えられた。御霊が内に働かれ、自分の考えを一つずつ整理していくことができた。感情的人間にとっては、なかなか味わえないとても不思議な感覚だった。

では、“話しやすい人”ではない人、つまり私が共通するものがないな、と思い込んでいる人と関わるにはとんでもない勇気が必要になる。めちゃくちゃ祈って、沢山妄想して、シミュレーションして、あとは勢いで。これは大げさでも何でもなく、ある意味私のルーティンで、それぐらい恐れがある。でも、神との関係の中で「人と関わっていないこと。そして、関わることをスタートすべきだ」 それが示されたとき、できる理由も示された。
それは、“キリストによる一致”。
ピリピ2章1節~10節。これは、私が二年ほど前にも人間関係をひどくこじらせたときに与えられたみことば。ここに信仰を持って立つなら、交わりができると確信した。いやむしろ、これでいくべきなのだと。そして、それを始める動機は「神は人を愛することを教えているから」。これまでの私は、人ををさばくことも、責めることも、許さないことも散々してきたし、なんなら私の特技だ。でも私は、すでに罪の支配から解放されて、新たな位置へ移されている。だからもう、古い自分の性質を愛してそこに戻ることをやめにしようと思った。そして、日々神の平安に満たされて生きることを求めるようになり、人を愛せることを確信するようになった。

チャレンジを始めた。神がその時その時示してくださる人と交わりを持っている。
日々神がその人にどのように働かれているのか、そしてその人がそこでどんな戦いをしているのか、どんな前進があるのか。神に満たされているのか、そうでないのか。相手を知ることで、祈りが生まれ、尊敬が生まれる。愛することが始まる。神の偉大さをますます味わい、御霊の支配によって会話をすることを体験していく。
まだまだ慣れないことにチャレンジしているために身体は疲れをおぼえるが、心はいつも満たされる。

同じキリストによる恵みを受け取っている人を見て「共通するものがないな」と思っていたことを心から神に悔い改め、向きを変え進んだことで、キリストの恵みは“ただ受け取って終わり”ではなく、それは人を生かすものであることを体験した。これによって、これからも大胆に人と関わっていきたい。